この計画で、富樫さんの他にも協力してもらいたいと思っていた人物に会いに行った。
西部地区のtomboloというパン屋の店主、苧坂淳くんと、彼の奥さんの香生里さんだ。
彼らもまた、大家さんでも地主でもない。
淳くんと僕は同学年で隣の中学に通っていた。
淳くんは当時から雰囲気のある人で、挨拶程度に1度だけ会話した事を僕はずっと覚えていた。
西部地区においしい天然酵母のパン屋ができて、そのお店をやっているのが淳くんだと人から聞いて知った。
まだ移住体験の計画が始まる前、物件ツアーの事を妻に話した時に、tomboloは伝統的建造物をリノベーションしてお店にしてるから、ツアーの時に事例として見学させてもらったら?と提案があって、会いに行ってみた。
tomboloは雰囲気のあるお店だった。
奥さんの香生里さんはその時初対面だったけど、とても感じの良い人で、tomboloに立ちながら、自身もzigzag社としてデザインの仕事をしていた。
おおよそ15年ぶりに再会した淳くんも僕の事を思い出してくれた。
物件ツアーの事を話すと、自分も同じような事を考えていたと教えてくれた。
僕はこの時から、淳くんと香生里さんには協力をお願いしたいと思っていたので、改めて移住体験企画の話を持ちかけた。
こうして、この計画は走り出す事になる。
まずは物件探し。
市の担当者に、空き家情報と大家さんの情報の提供をお願いしたが、何者でもなかった僕たちに対して、市としては協力するのは難しいらしくNPO法人を立ち上げて欲しいと言われてしまった。
9月のバル街にこの企画を間に合わせる為にはそんな時間は無かった。
すぐに頭を切り替えて自分達の足で情報を集める事にした。
苧坂夫妻から、散歩の途中で見つけた建物の大家さんとたまたまその場で話ができたので、みんなで会いに行こうと連絡があった。
早速、大家さんに企画の説明をしに行ってみたが、詳しい説明をすればするほど雲行きが怪しくなっていく…
今日始めて会った、どこの誰かもわからないような奴らに部屋を貸してくれと言われているのだから無理も無い。
最終的に、少し考えさせて欲しいという返事でその日は帰る事にした。
後日再度相談しにいったが、面倒な事はしたくないので諦めて欲しいと言われてしまった。
不動産ポータルサイトに掲載されている物件を短い間だけ賃借する事も考えてみたけど、それは僕達のやりたい事では無い気がした。
街を巻き込んで、志ある大家さんと一緒に実現したかったからそれではだめだった。
気を落としかけていたところ、事情を知った富樫さんの知人からアパートの大家さんを紹介してもらえる事になった。
早速中を見せてもらうと、坂の中腹に建っているこのアパートの二階の部屋からは海までは見えないが、路面電車と街並みが眺められる。
“日本の道100選”にも選ばれた石畳の坂道というロケーションも良い。
大家さんに交渉してみると、なんとすんなり了承してくれた。
記念すべき一件目「坂道暮らし」が決定。
僕は父の知人で、僕が生まれる前から西部地区の街並み保存の為に活動していた大先輩達の1人の方に相談してみる事にした。
事情を話すと、もう何年も前に、今でいう“アーティストインレジデンス”のような事を西部地区で企画した時に協力してくれた大家さんを紹介してくれる事になった。
僕は期待してすぐに電話をしてみたのだけれど、あまりスムーズに話が進まない。
先日の失敗の記憶が蘇ったけど、なんとか物件を見せてもらえる事になった。
少しビビりながらも、この日は富樫、蒲生の2人で現地に行く事にした。中を見せてもらいながら、企画の詳しい説明をしているとだんだん理解してくれてきている様子がわかった。しかし、見せてもらった物件は生活できるようにするまでに、時間とお金がかかりそうだった。
大家さんに、他にも物件がないか聞いてみると、このまま移動して見せてくれるという。
物件のある通りに入ると、ノスタルジックで雰囲気のある路地。
ロケーションはイメージ通り。
案内された建物はこれもまた、木造平屋建てでイメージ通り。
大家さんの不安を取り除く為に、細かな条件をさらに話し合って、無事了承頂いた。
この頃、ふと思いついた事があった。僕たち家族は西部地区で、一戸建を賃借して暮らしていたが、妻の実家の一部をリノベーションして引越しをする計画を立てていた。8月には引越しできそうだったので、今住んでいる僕たちの家も移住体験に使わせてもらったらどうだろうと。
大家さんは親戚だったので、スムーズに話は進んだ。
漁港の近くで、二階の窓からは海と立待岬が眺められる。
3件目「海街暮らし」が決定。
ここで物件探しは終わりにして、次のステップへ。
企画概要の整理、広告の作成、団体名、その他にも決めなければならない事は次々出てきたが、メンバーそれぞれ別に仕事をしながらなので自由に打ち合わせの時間は確保できない。
インターネットを駆使した打ち合わせは日々深夜まで続いた。
そして、団体名は“箱バル不動産”に決定。建物(箱)を軸に、街の人たちの小さなコミュニティ(バル)が生まれ、この街での暮らしがより豊かになって欲しいという想いを込めた。
そして、箱バル不動産の企画第一弾が「函館移住計画」となった。
なんとか辿りついた、Facebookページでの体験モニター募集開始。
公開前夜、明日からメールの確認に追われることになる。
メンバー全員がそう思っていた。
函館移住計画発表の翌日、まだ応募のメールは来ていない。
Facebookページの「いいね!」や、「シェア」の数は徐々に増えていくけど、とうとうその日は一件も応募は無かった。
数日後、ポスターとフライヤーが届き市にも改めて協力を依頼したところ、印刷物であれば協力してもらえるという。
市役所の中や、東京のアンテナショップ、オープンしたばかりの有楽町駅の移住希望者向けのブースに置いてもらえる事になった。
それからも日を追うごとに、協力者は増えていった。
ポスターの設置や、インターネット上での情報拡散、新聞の取材、その他にも移住体験がより有意義になるように協力したいという声を本当に沢山いただいた。
もしかして、企画倒れか?
そんな事も頭をよぎった。
正直焦っていた。
応募が3件来た時点で開催が確定し、次の準備を進められるのに、どんどん時間は過ぎていく。
富樫さんだけが、「大丈夫。締切3日前には必ず来る。」と、どっしり構えている。
この頃世間はお盆休みに入っていた。